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「80日間世界一周」のルートの考察

~世界一周の歴史と背景~



作成日:2014/12/07

1.作品と作者について
2.作品のあらすじ
3.作中の世界一周の考察
4.現代の世界一周
出典・参考



1.作品と作者について

80日間世界一周:岩波文庫
80日間世界一周:岩波文庫
 「80日間世界一周」はSFの父とも呼ばれるフランスの小説家ジュール・ヴェルヌ(1828-1905)がSF創成期の1872年に執筆した作品です。あらすじは下に詳しく書きますが、あるイギリス人が「80日間」で世界一周をすると言う賭けをし、フランス人の召使と共に世界一周の旅に出ると言う冒険小説です。
 ジュール・ベルヌは他にも「二年間の休暇(十五少年漂流記)」、「神秘の島」などの冒険小説やSF小説(科学小説)である「月世界旅行」、「海底二万里」、「地底旅行」などの有名な作品を書いています。冒険小説という分類から一部は児童文学としても親しまれており、だれしも子供のときに読んだ事があるのではないでしょうか。
 19世紀は、18世紀後半から続いたイギリスの産業革命をはじめ各国の工業化が進むと同時に、理論面でもドルトンの原子論(ドルトン、1803)、オームの法則(オーム、1826)など大きな発展があった時期でもあります。SF小説の誕生は科学あるいは技術が一般に広まり身近に感じられるようになった(科学による恩恵を受けることができるようになった)ことの表れの一つではないかと感じます。
 19世紀に発表されたSF小説の中ではジュール・ヴェルヌの一連の作品の他に「タイムマシン」、「透明人間」(H・G・ウェルズ)が有名です。


2.作品のあらすじ

 舞台は1872年のイギリス。資産家であるフィリアス・フォッグは常日頃から通っている「革新クラブ」(英国の実業家が集まり議論やゲームをするクラブのようなもの)で「モーニング・クロニクル紙」(新聞)がはじき出した80日で世界を一周する順路が実現可能だという方に2万ポンドを賭け、実際にその日の夜(10月2日20時45分)から行うことになる。おりしもその日から雇われたフランス人の召使パスパルトゥーと共に80日の世界一周の旅へ出発した。
 一方イギリス警察の刑事フィックスは英国銀行から5万5千ポンドを盗んだ犯人がフィリアス・フォッグだと確信し、彼を追ってイギリスから出発した。彼はスエズでフィリアス・フォッグと召使パスパルトゥーに遭遇したが逮捕状が間に合わず追いかけて一緒に旅することになった。
 スエズを出た3人は船でポンベイ(インド)へ行き、そこから鉄道でカルカッタを目指したが、途中で鉄道が未完成の区間が有り、その間を象で進むことになった。彼らは途中、生贄にされそうになっていた前藩主の妻アウダを助け、またしても逮捕状が間に合わなかったフィックスと共にカルカッタを出て香港をめざした。
 香港でフィックスはパスパルトゥーをアヘンで酔わせ予定を遅らせようとしたが、予定より早く出た船に間に合わなかったフィリアス・フォッグとアウダは上海へ小型船を貸し切って行こうとしたため、しかたなく一緒に乗った。彼はイギリス統治領を出たため本国イギリスに帰ってから逮捕しようと考えたのだ。途中嵐で遅れたものの上海発サンフランシスコ行きの横浜で乗る予定だった客船に3人は乗ることができた。
 一方パスパルトゥーは乗る予定だった船になんとか乗ることができ横浜に着いたが、無一文になり本国に帰るためサーカスで道化役をして入り、連れて帰ってもらおうとしていた所に、フィリアス・フォッグ他2人が通りかかり無事合流することができた。
 太平洋を船で渡った4人はサンフランシスコから汽車に乗りニューヨークを目指した。途中列車はインディアンの襲撃に会いパスパルトゥーは連れ去られてしまい、フィリアス・フォッグは果敢に向かっていき救出は成功したが列車はもう出てしまっていた。4人は帆をつけたそりで次の駅まで向かい、そこからニューヨークを目指した。
 4人がニューヨークに着いたときもうすでにリヴァプール行きの船は出航してしまっていた。フィリアス・フォッグは商船を買収しリヴァプールへむかったが、途中で燃料が無くなり甲板やマストなど木でできた部分までも燃やし、イギリスを出発して80日目の午前1時、アイルランドの港へ入港した。彼らはイギリスに入り、午後0時20分には遂にロンドンまで後6時間の所まで帰ってきたがフィリアス・フォッグはフィックスに逮捕されてしまう。ところが銀行強盗の犯人は3日前に逮捕されておりフィックスの間違いだったことがわかった。フィリアス・フォッグと召使パスパルトゥーそれにアウダは特別列車でロンドンへいそいだが到着したのは12月21日(土)20時50分だった。彼は約束の80日間より5分遅れてしまった。
 アウダは実は旅行中にフィリアス・フォッグに思いを募らせており、フィリアス・フォッグもまた彼女にひきつけられていた。彼らは翌日の「月曜日」に式を挙げることになる。フィリアス・フォッグは召使パスパルトゥーに教会に依頼に行かせたが、司祭から「明日は日曜日だから」と断られた。今日は土曜日だったのだ。そう彼らはイギリスから東回りに進んだため日付変更線をまたいで一日分稼いでいたのだ。フィリアス・フォッグは革新クラブへ急いだ。
 一方革新クラブには騒ぎを聞きつけた新聞社や観衆が詰め掛けており、常連の面々は期限の時間が刻一刻と迫ってくることを感じ緊張ていた。そして遂に期限の20時45分になるその瞬間、フィリアス・フォッグは姿を見せた。彼は賭けに勝ったのだ。



3.作中の世界一周の考察

 このページ(外部サイト)に作中フィリアス・フォッグたちが旅した経路が載っています。
 この表中で最も重要な箇所は日付変更線です。作中にも重要な要素として登場しますがここは東経(西経)180度の経線であり、通過するときに1日、日にちを減らすことで矛盾無く日付を表すことができます。(日本→アメリカの場合)
 さて、作中に出てきた「モーニング・クロニクル紙」(新聞)がはじき出した80日で世界を一周する順路を下に示します。

作中のルート
作中のルート(出典: 八十日間世界一周_wikipedia)
ロンドン
 ↓ 鉄道・蒸気船7
スエズ
 ↓ 蒸気船 13
ボンペイ
 ↓ 鉄道 3
カルカッタ
 ↓ 蒸気船 13
香港
 ↓ 蒸気船 6
横浜
 ↓ 蒸気船 22
サンフランシスコ
 ↓ 鉄道 7
ニューヨーク
 ↓ 鉄道・蒸気船9
ロンドン
  計 80

このジュール・ヴェルヌが作中で示した「80日間世界一周」のプランははたして当時の情勢で実現可能なのでしょうか?
 実はこの小説が発表されてから17年後の1889年、アメリカのニューヨークワールド紙の企画でネリー・ブライという人が実際に世界一周を80日より少ない72日で行っています。また、ルートについてもこの小説が発表された1872年にイギリスのトーマス・クック社(近代的な世界初の旅行代理店)が世界一周団体旅行のプランの発売を始めています。経路は「イギリス→ニューヨーク→サンフランシスコ→日本→中国→シンガポール→インド→(スエズ運河)→イギリス」で順番こそ逆周りですが小説と同じルートです。
 ではなぜ世界一周が可能になったのでしょうか?それは交通の発達当時の政情が鍵となります。

3-A.交通の発達
 「時間距離」と言うものをご存知でしょうか。これは2点間の距離を所要時間によって表そうというものです。例えばA-B間の距離が10kmだったとき、4km/hの歩行者の場合の時間距離は2.5時間、60km/hの自動車の場合の時間距離は10分となります。
 19世紀の移動手段の各時速と時間距離(4万km(赤道の長さ)で計算)は以下のようになります。
移動手段時速時間距離
徒歩4km/h1.14年=416.67日
馬車15km/h3.7ヶ月=111.11日
自転車17km/h3.2ヶ月=98.04日
蒸気機関車40-50km/h*1.11-1.39ヶ月=33.33-41.67日
 
帆船10km/h*5.5ヶ月=166.67日
蒸気船12-15km/h*3.67ヶ月=111.11日
(*当時の移動日数と距離から計算した値)

 1769年にワットによって改良され織機など様々な機械の動力として使われるようになった蒸気機関を利用して、1814年にスチーブンソンは実用的な蒸気機関車が発明しました。1830年にはイギリスで世界初の旅客鉄道が開通し、19世紀中頃にはヨーロッパやアメリカで鉄道の建設ラッシュがおき主要路線が整備されました。その結果、各都市間の時間距離は上の表からもわかるように1/3~1/4に短縮されたのです。そしてこの鉄道網の整備によって旅行にかかる費用や時間が抑えられ、産業革命によって生み出された中産階級の「余暇」としての旅行が普及しはじめました。
 又、スエズ運河が1869年に、パナマ運河が1914年に開通し、これによって喜望峰(アフリカ大陸南端)やホーン岬(南アメリカ南端)を経由せずにインド洋~大西洋~太平洋の接続が容易となり船の利便性が高まることになりました。

3-B.当時の政情
 当時のヨーロッパの国々は工業化を進めるなかで原料(石炭・ゴムなど)の確保や製品の売り先(市場)が問題となっていました。それらを彼らは植民地に求めました。中でもイギリスは他国に先じて工業化したこともあり多くの植民地を手にいれることができたのです。そのイギリスの植民地のうちスエズ~インド~シンガポール~香港と経由することで大西洋からそれぞれの都市で石炭を補給しながら太平洋に出ることができます。
 上の中で香港はイギリスが清からアヘン戦争(1840-1842)の結果獲得したものです。アヘン戦争の結果、清の港のうち5港(広州・廈門(アモイ)・寧波・福州・上海)を自由貿易港となり、これによって太平洋への航路の整備がすすんだのです。

 一方その頃アメリカ大陸では大陸横断鉄道の建設が始まっていました。1859年までには東部の鉄道網がオマハまで整備されていて、その後1862年に太平洋鉄道法が制定され本格的に鉄道の建設が始まります。
 はじめにユニオン・パシフィック鉄道がオマハから西向きへ、セントラル・パシフィック鉄道がカリフォルニア州サクラメントから東向きへ二つをつなぐように建設され1869年に開通しました。その後サンタフェ鉄道(1882年)、ノーザン・パシフィック鉄道(1883年)、グレート・ノーザン鉄道(同年)などが開通し、駅馬車やパナマ地峡を経由したルートに比べて所要時間が大幅に削減できるようになりました。

 最後の世界を一周するルートに必要な場所は日本です。当時の船は航続距離が短く、太平洋を横断する航海をする際には、太平洋上には島があまり無く遠洋を航海せざるを得ないためなるべく大陸の間の距離が近い場所を航海する必要がありました。地理的に日本はアメリカ大陸西岸から近く、そのような意味で日本の開国は太平洋の西側と東側をつなぐ最後のピースとなったのです。1968年に明治維新がおきましたがそれ以前に、1854、1958年に締結された日米和親条約、日米修好通商条約によって神奈川(横浜)・函館・長崎・兵庫が開港され、1867年には横浜-サンフランシスコ間の定期航路が就航しました。

 上記のように蒸気機関が実用化され、それを利用して従来の大西洋航路に加えヨーロッパ・アメリカ内の鉄道網の整備とスエズ~インド~シンガポール~香港航路と太平洋航路が成立したことで安定した世界一周のルートが確立されたのです。


世界初の定期旅客路線
世界初の定期旅客路線
(出典: ベノイストXIV_wikipedia)

4.現代の世界一周

 前述では陸路と海路の発達によって「八十日間世界一周」が可能になったと書きましたが、現代で最も普及している手段は空路(飛行機)でしょう。
 飛行機の開発は1903年にライト兄弟が飛行機(エンジンを備えたもの)の初飛行に成功したことを契機に本格的に始まりました。黎明期は実験的なものが多くもっぱら冒険用としての利用が主でしたが次第に物資輸送や戦闘用として使われるようになりました。
 世界初の定期旅客路線は1914年に就航したフロリダ州タンバ湾のタンバ-セントピーターズバーグ間を結ぶ航路です。当初は船に押されていましたが技術革新が進み次第に長距離航路においてシェアを獲得していきました。その後第二次世界大戦が終わった1960年代から価格が下がり始め、一般の人も乗れるようになったのです。

現代ではいくつかのアライアンス(航空連合:スターアライアンス、スカイチームなど)から加盟航空会社の乗り継ぎで世界一周できる「世界一周航空券」と言うものが発売されています。その中でもグローバルエクスプローラーのものを使うと東京→ニューヨーク→ロンドン→東京の経路で3泊5日の短期間の世界一周も可能となっています。


出典・参考

参考webページ
八十日間世界一周の世界一周ルート(受験の地理:Aki's Geo Project)(2014/12/07閲覧) http://sites.google.com/site/akisworldgeography/coffee_break/cb_001/cb_001_002
Thomas Cook History(Thomas Cook社:英語)(2014/12/06閲覧) http://www.thomascook.com/thomas-cook-history/
横濱もののはじめ探訪-3.太平洋航路の第一船コロラド号の寄港(横浜市中区役所HP)(2014/10/30閲覧) http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/sighthist/monohaji/monohaji-3.html
ベノイストXIVの紹介ページ(英語)(2014/12/06閲覧) http://www.airminded.net/benoist14/benoist14.html
世界一周堂(2014/12/05閲覧) http://www.sekai1.co.jp/

参考書籍
八十日間世界一周(作:ジュール・ヴェルヌ,訳:鈴木啓二,岩波書店,2001/04/16第1刷発行(2006/05/25第4刷発行),IABN13:9784003256930)Amazonのページ


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